当日券:一般 1,300円/高・大学生 800円/中学生以下 無料
【団体券について】20名様以上が対象。20枚購入につき招待券1枚を進呈いたします。
【トワイライトチケットについて】当日午後4時より日展券売窓口にて販売いたします。
こちらを日展事務局宛にご郵送下さい!
切手が事務局に到着次第、以下の書類を郵送いたします。
各部門で決められた搬入日および搬入場所に、下記を添えて作品の搬入をしてください。
各搬入業者の所定の手続きにしたがい、作品の搬入を依頼してください。
業者ごとに締切期日等が異なってくる場合がありますので、詳細は直接各社にお問い合わせください。
長い歴史が示すように、日展はたえず新しい時代とともに、脱皮をかさねながら日本美術界の中核として、近代日本美術の発展に大きく貢献してきました。
知的な空間処理と鋭い造形感覚で戦後の日本画壇をリードした
『孔雀』(1956年)東京国立近代美術館所蔵透明な空気感の中、夢幻的なメルヘンの世界を謳い上げる
『白馬の森』(1972年)長野県信濃美術館 東山魁夷館所蔵杉山寧、東山魁夷とともに“日展三山”として人気を集め、戦後の日本画を牽引する役割を果たした。
『少女』(1979年)個人蔵日本画的な洋画を目指し、広がりと奥行きのある空間が特徴
『赤小豆の簸分』大正7年 ポーラ美術館所蔵日本画から洋画に転じ、力強いタッチの作品を発表し続けた
『春』昭和6年奔放で力の満ちた板画作品で油絵以上の緊張感を見せた
『「津軽海峡」の柵』昭和40年対象物の生態をいきいきと捉え、みずみずしく造形した
『餌食む猫』昭和17年油絵から彫刻に転じ、内実のこもった女性像が特徴
『響』昭和37年仏師から彫刻の道を志し、木彫で写実を力強く表現した
『大石良雄』昭和8年陶芸を職人芸から個性的な芸術へと発展させた
『花卉文彩磁瓶』昭和7年自ら編み出した技法で近代的造形作品を制作した
『人』昭和37年輪島塗の伝統を受け継いで時代にあった作品を生みだした
『膳(動物蒔絵膳)』昭和3年中国古代文字を現代に生かし、新たな造形を創出した
『暗鬼を斬る』昭和51年かな書道界をリードし、漢字と仮名の調和体を提唱した
『櫻』昭和30年ハリのある文字で現代のかな美を創造した
『清水』昭和39年日展は90 年以上に及ぶ長い間、その時代々々に足跡を残す芸術家たちを輩出しました。芸術家たちと文学者たちの交流は盛んに行われてきたので、作品を創造する喜びや苦しみの姿は文学者たちにとって格好のモチーフとなりました。日展の芸術家たちは、多くの文学作品に登場しています。
吉川英治賞を受賞した宮尾登美子の『序の舞』の主人公・島村津也は、日展を中心に活躍した女流画家の上村松園がモデルになっています。また、夏目漱石の『三四郎』や『それから』にも日展の作家が登場します。
『序之舞』1936年
絵に魅せられた女流画家の生涯 幼い頃から絵を描くのが大好きな島村津也(上村松園)は、その才能を信じた母の愛に支えられ、画塾に通ってその腕を上げていきました。15 歳で第3回内国勧業博覧会に出した作品が受賞して天才少女と騒がれます。
明治40年の第1回文展(現在の日展)に出した「長夜」では3等賞を受賞し、以来、何十年も日展を主な活動の場としてきたので、松園の代表作はほとんどすべて日展出品作です。
宮尾登美子の『序之舞』は文展、帝展、日展へと作品を出品しつづける松園の創作活動を縦糸に、恋愛模様を横糸にして物語が綴られています。男性の世界だった画壇で女性が生き抜くことさえ難しいのに、様々な逆風に耐えつつ次々と秀作を生み出してゆく苦しさと喜び。絵にとり付かれたひとりの女の生涯は読む者の胸を打ちます。
「蛍」「娘深雪」「舞支度」などは、満ち足りた生活の中で生まれた秀作です。たおやかで繊細な日本の女の美しさを余すところなく表現しています。そしてその人との悲痛な別れの後には、「焔」で恋の苦しみに身を焼く女を描き、自分の心を絵の世界に昇華させています。やがて息子も日本画家に成長し、日展への母子出品も果たします。女性ならではの様々な苦しみを乗り越えた作品は円熟味を加えます。
『序之舞』1918年
昭和11年には「序之舞」を発表します。息子の嫁たね子をモデルに、仕舞の中で最もテンポが緩やかで品のよい序の舞の終わりに近いところの姿を捉えています。文金高島田に振り袖の令嬢の舞姿は毅然として侵しがたい女性の気品を湛えていました。「凛として会場を圧していた」との評を得て、代表作となります。
『序の舞』は第17回(1983年)吉川英治文学賞受賞、1984年には映画化され、主人公は名取裕子が情熱的に演じました。
夏目漱石は文学だけではなく絵画にも造詣が深い作家でした。胃病を病んでからは、精神的なリラックスを求めて、絵を描く喜びを見つけました。また、様々な展覧会に足を運び、絵を鑑賞する楽しみを堪能しています。日展の審査員たちの中には親友もおり、作品の中には別の日展の審査員をモデルとして登場させたりもしています。
漱石の尊敬する画家・浅井忠は明治40年の第1回文展で洋画部門の審査委員を務めています。しかし、今後の活躍を期待されていた浅井は、残念ながらこの年に亡くなってしまいました。漱石は、浅井への追悼の意味も込めて、作品の中に浅井をさりげなく登場させています。
『三四郎』の主人公・三四郎がヒロイン・美弥子たちと展覧会を見に行くと、そこに深見という亡くなった画家の遺作が展示されています。この「深見」は浅井をモデルにしていると言われています。
「深見さんの水彩は普通の水彩のつもりで見ちゃいけませんよ。(中略)深見さんの気韻を見る気になっていると、なかなか面白いところが出てきます」(『三四郎』より)
また、『それから』の主人公・代助が兄の家を訪れると、浅井忠の絵を染め抜いた湯飲みが置いてあります。さりげない一場面の中に浅井忠の絵を出すことにより、小説の背景に深みを加えているのです。
漱石の友人である中村不折は、第1回文展からずっと西洋画に出品し続けており、審査委員でもありました。漱石の友人・正岡子規もまた、不折や浅井忠と交友があったのです。
こうして文学者は画家から表現を学び、画家も文学者の批評を参考にして作品の質を高めていったのです。津田青楓は画家でありながら漱石の小説を敬愛し、弟子として慕っていました。津田は何回も文展に出展しては落選しており、漱石はなぐさめの手紙を書いています。
いよいよ文展が開会になりました。あなたは落選のようですが当否は行って見ないうちは何とも言えませんが(中略)その他にもまだ落選者がたくさんあるようですが、どうかしてその人々の作品を当選者と対照して見せたい。どうですか(中略)落選展覧会と号して天下に呼号したら」(大正2年10月15日、津田青楓への手紙より)
その後、奮起した津田は第5回文展に「五月のインクライン」という作品で入選しています。
漱石は筆まめな人で、友人や知人によく手紙やハガキを出しています。秋になり文展の開催期間の手紙には、季節の挨拶代わりに「文展」の字が出てきます。
「上野に文部省の展覧会あり」(明治41年10月27日の手紙より)
「御手紙拝見、文展の批評思ったより長くなり候」(大正元年10月21日の手紙より)
「拝啓文展だの御大典だのでなかなか陽気なことでございます」(大正4年10月22日の手紙より)
当時の文化人にとって文展がどんなに興味多い存在だったかがうかがえます。また、東京朝日新聞に第6回文展の評を「文展と芸術」というタイトルで書いています。なにかと漱石と比較される森鴎外も第1回文展から審査員を続けています。日本の美術と文学が深く関わり合いながら進歩してきた歴史が偲ばれますね。
それぞれの「素材」や「技法」を見ておくと、会場で作品を見たときの迫力がちがいます。
素材や表現方法。じつはだいぶ違います。 作品を見るとき、近くに行って、作品の表面をよく見てみて下さい。それから色などもよく見てください。
どの材料でも、作る人は最後に一番素敵に見える色は何かな、と考えて、絵の具や薬、いろいろの塗料(ペンキやニス・漆など)そのほかお茶やお風呂の入浴剤など、思いもつかないようなものも使い、色付けをします。
日本の伝統的な絵画で、絹や紙に岩絵の具(いわえのぐ)で描かれます。岩絵の具は、色のついた石(鉱物)を細かく砕いて粉のようにしたものを使用します。日本画の会場ではザラザラした感じの絵がたくさんあると思います。そうした絵は、粒の粗い岩絵の具を使って描いているのです。
水彩・油彩・版画とあります。水彩は水彩用の絵具を水でといて描くので、油絵とはちがうやわらかさや味わいが表現できます。油彩は絵具をうすくとかしたいときは、水の代わりに油の液を使います。また、画用紙の代わりに麻の布でできたキャンバスを使います。これは、油絵具に耐えて長持ちさせるためです。版画は、紙やキャンバスに直接描く油絵や水彩画とは違い、別の素材に絵を描いたり彫るなどして、それを紙などに刷ることによって絵を出すものです。
木や石や金属(鉄、ブロンズ、ステンレス)や、焼いた粘土(テラコッタ)、石膏・プラスチックなどいろいろな材料で作られます。人や動物などの形を、石や木をほったり(彫像=ちょうぞう)、粘土で造形(塑像=そぞう)して作る立体的な作品です。そのままを形にするだけでなく「気持ちを形にしてみると、人や動物の形になるのかな...?」そんなことを考えて、工夫してできたものが『彫刻』なのです。
実用品に美しさや装飾性を加えて作られた作品のことです。陶磁器、漆、染色、彫金などさまざまな分野があります。
筆(毛筆)を使って文字を書く芸術です。中国で古くから発達した漢字のほか、日本独特(どくとく)のかなや調和体、石などに文字をほる「篆刻(てんこく)」があります。紙や墨の素材や色味やもちろん、筆は毛の長さ、柔らかさ、大きさもさまざまです。長いもの短いもの、硬いもの柔らかいもの...
どんな筆で書いているのかを考えながら見るのもおもしろいかもしれません。
江戸時代の長い鎖国の後、国を開いて外国との交流を始めると、欧米諸国の文化の高さは日本の人々を驚かせました。欧米の国々に肩を並べるために、我が国は産業の育成に努めなくてはいけないのと同時に芸術文化のレベルアップの必要性も強く感じていたのです。
明治33年、当時オーストリア公使だった牧野伸顕は海外の文化事情に肌で触れ、ウィーンを訪れた文部官僚に公設展覧会を開催することの大切さを情熱的に語っています。フランスでは、ルイ1 世時代の1667年からサロンで開かれていた鑑賞会が公設展に発展しており、それがフランスの芸術面の高さに大きく貢献していました。
「我が国も公設の展覧会を開き、文明国として世界に誇れるような芸術文化を育成しようではないか」牧野は日本の美術の水準をもっと高めたいという夢を抱いていました。
この夢が実現するのが明治39年です。文部大臣になった牧野はかねてより念願の公設展開催を決め、明治40年に第1回文部省美術展覧会(略して文展)が盛大に開催されたのです。この文展を礎とし、以来、時代の流れに沿って「帝展」「新文展」「日展」と名称を変えつつ、常に日本の美術界をリードし続けてきた日展は110年の長きに渡る歴史を刻んできました。
最初は日本画と西洋画、彫刻の3部制で始まりましたが、昭和2年の第8回帝展から美術工芸分野を加え、昭和23年の第4回日展からは書が参加して、文字通りの総合美術展となったのです。
昭和33年からは、民間団体として社団法人日展を設立して第1回日展を開催し、さらに昭和44年に改組が行われました。平成24年には、内閣府より公益社団法人への移行認定を受け、団体名称を「公益社団法人日展」に変更しました。平成26年には、組織改革に伴って改組 新 第1回日展と改め、開催することになりました。
日展東京会場展は、99年間にわたり東京・上野の東京都美術館で開催してまいりましたが、日展100年目を迎える節目の年である2007年からは、東京・六本木に開館した「国立新美術館」に会場を移し、新たなスタートを切りました。 東京会場展終了後は、全国主要都市で巡回展が開かれ、多くの入場者があります。これだけでも世界に類のないことですが、それだけに、わたくしたち日展作家は、これからもいっそう日本の現代美術の健全な発展に大きな責任と、自負を持っていきたいと思います。
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