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2024年 理事長と語ろう!
気鋭作家5人が語る日展【後編】
日本画 岩田壮平、洋画 田中里奈、彫刻 宮坂慎司、工芸美術 武田司、書 鹿倉碩齋
2024年7月30日、上野の日展会館にて、日展の新進気鋭作家、日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書の部門からお1人ずつ参加いただき、宮田亮平理事長と対談を行いました。会場には、6名の作家の作品が展示され、各作家から作品紹介の後、これまでの軌跡や日展との関わり、今後の日展に期待することなど、なごやかな雰囲気のなか、さまざまな話が展開されました。そのなかから一部をご紹介いたします。
日展との出会い
宮田:今、日展という話が出たので少し話を展開させてもらっていいかな。なぜ日展に出したのですか? なんでまだ出し続けてるの? 私も落ちたんだよ。なんで俺の作品がわかんないんだって。今だから言えるけどね。どうですか?
岩田:私も最初出し始めた時は3回落ちて、やっぱりクソって思って見に行ってなぜここで自分はダメだったんだろうみたいに思うんですよね。まあ勝ち気な部分もあったんだと思うんですけど。それで大学院くらいになってようやく日展に初入選して、社会に出てまた落ちるんです。うまくいかないんですよね。そこから出していくっていう、僕の最初の目標、強い意識として日展がありました。まだ当時、東山(魁夷)先生とか髙山(辰雄)先生がご存命だったので、同じ空間に自分の絵がいつかはっていう思いは最初強かったんですよね。落ちてた分、それは余計強くなったというのがありますよね。
宮田:それまで結構順調だったんでしょ?
岩田:まあ好き勝手やっているので、主観的に順調だとは思ってましたけど、社会に触れて、これは自分の力ではなんともならない。そういったものを初めて経験したと思いますね。
宮田:普通は諦めるけどね。
岩田:そうですね、そこのところは負けず嫌いなところがあって。それこそ、大学出て今の学生は就職を考えたりしますが、そういうことも考えず、とにかく1年に1回出すというのをずっと繰り返していくわけですけど。
宮田:それとさっきのお話の中にね、いわゆる公募展の中でも最大級の規模と歴史がある日展で、大先輩の東山先生とか髙山先生の話が出ましたけど。あの先生方と同じ空間に俺の作品があるっていうのはかっこいいよね。
岩田:会場に入って辿って行って自分の作品を通過して真ん中の部屋へ行くと先生方の絵があるということが誇りでした。
宮田:だから続けていられる。例えば落ちてもね、入れば余計うれしい。
岩田:そうですね。入ると仲間もできるので。
宮田:今の岩田さんのお話から連動して、皆さんに、日展が自分の生活の一部になっているとかいろんなことがあると思うんですけど、その辺はどうですか。
鹿倉:書の分野って、まず日展に出品するということが許されなかったというか。大学卒業して、師匠に「日展に出してみたいです」と言ったんですが、「10年早い」と言われたんですよ。それだけ出すことがまず一つの目標で、先生の基準を超えないといけないんだなと。何かしら先生が「出してもいいよ。君なら頑張っていけるんじゃないか」というものがあったのかもしれません。
実際のところ何十年も何十回も出品して、80、90くらいの方が初入選し涙を流す瞬間を見てきているので。日展の重みというか、日展への強い思いをひしひしと感じる。今でも日展に出すということは自分の中で一年間の集大成という位置づけでありますから。
宮田:そうですか。
鹿倉:一昔前まで日展はみなが知っていて、一番難しい展覧会というか、「日本で最大の展覧会だよね」と言っていた。それが今SNSで自由に作品を発表できるようになって、そういうところに興味を示さなくなってきつつあると思うのですが、だからこそ実物の生の作品を見ることの大切さや良さをわかる日が、また絶対に来ると思っているので、一生懸命頑張りたいと思っています。
宮田:そうですか。ちなみにその10年はやっぱり待った?
鹿倉:次の年に出しました。10年だめって言われたんですけど「出してみないか」って。
宮田:素晴らしいね。自分の中で何か超えるもの、自信ができていたのかな。
鹿倉:その時は出せるということが素直に嬉しかったですね。もちろん落ちましたけど、まずありがたかったですね。
宮坂:特に彫刻でいえば、私は具象彫刻を作りたかった。憧れだったんで。そうやって、必然的にその目標として日展があって。たまたま私は大学に日展の先生がいることを知らないまま入って、ああこういう先生がいてこういうかっこいい作品を展覧会に出しているんだっていうところから始まって。で、いざ日展に出すときに先輩方も同じ部屋で作っている。それこそ、色が付く前の白い彫刻の石膏を付けては削って付けては削って、辺りが白くなっているような所で、本当に黙々と作っている姿を見て、ああこうして何か得られるものがあるんだなという思いで、いつか出したいなと。
で、大学院に入って出し始めて今度は自分の作品を会場で見る。頑張ったのに周りの先生方の作品に埋もれると、こういうふうに見えるのかと思いながら、来年こそ頑張ろうとまた思って。出し続けてみると、今度は本当にこんなにすごい人たちがいたんだと気づく。
今でも私が本当に思うのは、日展には日本一の先生方がやっぱりいらっしゃるんだなというのがあって。こと粘土で日本一楽しそうに遊んでいる先生もいれば、具象彫刻を本当に哲学のように追求し続けている先生もいればということで、研究団体としてもすごく面白いな、という思いがあって。今でもそれがモチベーションになっています。
宮田:いまおっしゃった、いわゆる具象と言いながらも、哲学的なことと、粘土で遊んでいるような、そういう幅の広さというものを、ご自身も出品なさっていながら、同じ空間にいるからこそ、よりはっきりと自分の立ち位置も先生方の追求していることの先に何があるかということも分かるという。そういう魅力があるんですね。
宮坂:いわゆる昔のイメージでいえば日展は裸婦像が並んでいるというのもあったと思うんです。ただ、同じ裸婦像であっても個性がちゃんと出ているんですよね。見た目には小さな変化でも、そこにでさえ面白さはある。本当は我々がちゃんと魅力を発信していかなければいけないんだろうな、という思いもあります。
宮田:いやー、いい勉強になりました。
田中:私も師匠から「もうそろそろ出してもいいよ」と許しがあって初出品で落ちるんですけど、「普通初出品は落ちるんだよ」って。で、その後ランダムに入選させていただいて。そのうち入選することに目標を置いてしまい、入った年と同じようなパターンの構図だとか。がらりと変えると正直自信ないところもあって、冒険があまりできなかったのですけど、途中で落選した年に、先輩の先生に「落ちたときがチャンスだ」と言われて。ではがらりと自分のテーマと画風を変えようと思って、そこで変えることができたので、落選は逆に良かったなと思っています。あのままいくとずっと同じように入選することをただ重ねて、画風も変わらずにやっていたのかなと思っています。
武田:私の場合、きっかけもなにも出すのが当然だと思って出したというか、プロになるイコール日展に出すことと勘違いしていたくらい世間を知らなかったんです。一番好んで日展にずっと出している理由は、工芸って、伝統工芸と日展的な工芸があるじゃないですか。日展の工芸は技術がもちろんなければできないけれども、それを活かしてファインアートでなきゃいけないという両輪がしっかりあって初めて日展の作品なんです。その考えを表現して出せる舞台ってここしかないんですよね、日本には。なので、自ずと日展になります。
工芸はいろんなジャンルがあるけれど、技術の修練には長い時間が必要とされます。長いスパンで考えた時に、個展だけでやっていこうという考えにはなれなくて、毎年同じペースで大作に挑むというのは、締め切りがきちんとあるから100%の力をそこに頑張って投入できるというのがあって。10年作って3、4作いい作品ができたら、それはもう自分の中で100点かなと思って。あまり気負わず、それでも淡々と毎年作っていく中に新しい技術や表現を入れたりしています。
日展で一番ありがたいのは全然違うジャンルの先生たちも、ちゃんと見てくださっているということが実感としてわかるんですね。何年かして「前のあの作品、俺好きじゃなかったよ」と言われたり、「ここのところ良くなったね」とか、さりげなくおっしゃってくださる瞬間というのが多々あって。そういう時、すごく救われる気持ちになるんです。
宮田:なるほどね。
武田:だから全然やめる気にならないというか、本当に何の敷居もなく、会場を歩いていて出会った先生とかがぽんぽんヒントをくださって、その積み重ねで本当に自分は成長してきたなという気持ちでいるので。だからなんで続けるじゃなくて、なんでこんな良い場所って思っています。
受賞をきっかけに
宮田:さあ、皆さんから日展の魅力について語っていただいたけど、入選から当然、次に進むべきは何か賞をいただく、いや、賞を欲しいなとか、その瞬間みたいなところの話がそれぞれにあると思うんですけど、お話しいただけたら嬉しいですね。どうですか?
田中:一番は親にまず報告できたことです。自分も喜びましたけど、反対を押し切ってやってこれて良かったのかなと。これが一番大きかったですね。今は応援してくれていますけれど。
宮田:特選は入選して何回くらい?
田中: 8回か9回。
宮田:おお、すごいですね。じゃあ、皆さんも何か節目を教えていただけますか?
岩田:そうですね。最初に特選をいただくと、次の年は無鑑査で一年審査がなかったりする。そうすると、「賞おめでとう」に付け加えて、「来年はどんなの出すの?」「同じようなものを出すのか」と聞かれたりするわけですよ。で、それはもちろん、次の年の期待とちょっとした意地悪もあるのかもしれないですけど。賞をもらった時の作品をずっと引きずってはいけないんだな、だからそれを捨てる。賞をもらったことを捨てるということは、そのときに知りました。
宮田:そうでしたか。すばらしいお話ですね。
武田:スタイルを変えるというお話があったんですけど、私も賞をいただく前でも、10年くらいやっていてこのままじゃダメだなと思って、今までに3、4回、5年という一つの塊ごとに考えるようにしているんですね。1回目の特選をいただくのに、私は20年かかったので、すごく長かったなというイメージと、でももしかしたら短かったのかもしれないという思いがあって。ただ、今振り返って思うのは、これ何がダメなんだろう、何が足りないんだろうって、10年過ぎるくらいからずっと毎年毎年本当に重い気持ちで自分にダメ出しをし続けて作っているんですよね。だけど、いただいて初めて思うのは、その時間に作った作品がすごく愛おしくて、ものすごく成長させてもらったという、その気持ちしかないですね。
鹿倉:僕は逆に特選2回とってから怖くなってきて。要は落選がない。入選の時は喜んで陳列された作品を見に行って、反省をし、また来年頑張ろうとなるんですけど。今度からは絶対に陳列されると思うと、自分の中でいいものを書かなきゃいけないという思いばかりが募ってくるので、だんだん怖くなってきますね。ただ楽しみもあって、次に何を書こうかとか何を取り入れようかなど、色々な考えが溢れてくる。作家として、楽しい時間がまたもらえるのかなと思います。
宮田:読者の方は特選2回目でそのあと落ちないというのは何でと思ってしまうかもしれないですけど。日展では特選終わると、その次は、という順番があるんですよね。
岩田:特選2回で準会員になり、そして審査員をして会員の一員であると認められ会員になります。
宮田:特選で恐怖を感じる、それもまたやっぱり高みを目指すというのと責任もあるよね。
宮坂:私は初出品が第37回日展でしたので、その時に常に「入落というものは本当に運が良ければというようなぐらいで、とにかく落ちたときにも恥じぬ仕事は意識しなさい」と先輩たちからも言われて、もっと厳しい状況も聞かされていたので、賞もいつか来るものぐらいの形で、ずっと思っていたんです。で、第45回のところで初めて特選をいただいて。2、3年前に意識がすごく変わったもう一つの出来事があって、今はもうお亡くなりになったある先生と、ふと会場で会ったときに、「すごく良い所に並べてもらえたね。特選の近くに並んで、受賞作と見間違えたよ」みたいなことを言ってもらえて、その先生には認められたんだ、また頑張ろうと思ったことがありました。
宮田:なるほどね。やっぱりどこかでハードルを一つ上げて、そこからもう一つ、賞をいただいた後の自分というものに対する責任感。それはまさしく日展人だと、だからやらなきゃいけないことはこうなんだという気持ちになる。皆さんが賞をきっかけにそうなってきたのが、すごく嬉しいですね。
これからの日展への期待
宮田:さあ、いろいろ皆さんの人生観を聞かせていただきました。ここで、私に何か聞きたいなというのがありましたら、答えられるギリギリのところでお答えさせていただきたいと思います。何かございますか。
宮坂:今、私も教え子が日展に入るような年齢になってきまして、日展のこれからというところで、理事長にぜひ伺ってみたいことがあって。昨今、SNSをはじめ、個人で発信できるような時代なので、若い人がコスパやタイムパフォーマンスと言う中で、我々のやってるものはある意味で重たい、すごく重厚な仕事。私はそれに価値があると思って日展のことをとても好きな発表の場として捉えているわけなんですけど。これからどんなふうにこの団体が変わっていくかというのは、例えば、今日ここに入ってきたときに、ああこういう枠の取り去り方もあるんだ、例えば五科の作品がこうやって並ぶ部屋があってもよかったのかなとか。理事長として変革のビジョンがあったらお聞きしたいなと思っています。
宮田:まだ今年3年目ですので、大それたことは言えませんよ。日展は百何十年続いてるわけです。ただ、ずっと振り返ってみるとね、絶対的な美に対する揺るぎないものと、常に時代とともに変化していっているもの。その両方があるということはすごくわかる。だから僕としては崩したくないじゃなくて崩せない美しさに対する原点というものは日展としてずっと持っていきたい。だけど、すごく包容力がある。肝っ玉母さんみたいにどんな作品でも本当に素敵にやっているものをしっかりと認められる。そういう目を持った先生方を育てる。仲間になって一緒に育てていきたい。
自分の教え子が日展に入るようになったという話をしましたよね。これ実は大事なんですよ。私もずっと50年間藝大で教職をやっていて、自分の教え子が自分を抜いた時にやっと教育者なんだよ。それが面白いからずっと作家生活と教員生活の両方をやらしてもらっている。どっちも同じことなんです。結果的に。それができるという時に道場として日展があるなという気がしています。こうやって5科の作品を並べる。比較するのではなくて、違いをきちんと感じられるという面白さがある。これはこれから絶対やっていきたいなという気がしています。
同時にこれからもっと挑戦したいという人たちの意見もよくお聞きしながら、進めていきたい。藝大学長や文化庁長官のときの経験でいくと、独断で走っていった時に後ろを振り返ったら誰もいないっていうのがよくあるんです。そうではなくて、必ず提案をする。しかし、その中で新たなことが見つかる。じゃあやってみましょうっていう、この段階性はちゃんともちたいな。偉い先生、つまり年齢が高い先生とか素晴らしい先生の言うことをずっと聞くという考え方は、僕はしたくない。もちろんご意見をしっかりとお聞きするんだけど、じゃあ若い人はどうなんだ、その連携の中で新しい日展というのを作っていきたいな、という風には思っています。で、今年は第11回だけど来年からその表現はやめようと思って。スタートしてから第117回日展。来年は第118回日展ですね。
岩田:教え子というのはいろんな国の方がいます。現在は中国の方が最も多いですけど、留学生が来て、卒業と同時に日展とか出していく人が多くなっています。今後、世界の中での日展としてどうあるべきかというのは考えていく必要があるかと思います。
宮田:そうですね。各科の中には個展も含めて海外で展覧会をやっていたり、いろいろな方がいらっしゃると思うんです。その中のひとつとして留学生が出してくださると逆に今度は向こうの国に作品を持っていく。インターナショナルな日展というもっていき方はとても素晴らしい考え方ですね。
岩田:個人的に海外のアートフェアに出したりする時に、以前シンガポールかどこかで髙山辰雄先生の作品がぽんと出されていたんですよ。世界の美術と全く対等に、ちゃんと通じていってるわけですよね。日展という団体としての世界への持っていき方というのは、先生のなかではプランはございますか。
宮田:具体的なプランは、さすがに今はありませんけど、この巨大な組織ですから。今年、河口湖で100人ちょっとの展覧会、日展をやらせてもらったんです。これもね。非常にコンパクトなんですけれど、すごくいいんだよね。巨大な日展を国立新美術館でやり、それが分派されていって、いわゆる巡回展ではなくてサテライトの展覧会をやったんです。それをもっとコンパクトにして、例えばメトロポリタンやルーブルでやってみようという風なものに持っていけたら、僕はいいと思う。
岩田:そういうのがあったらいいです。
宮田:いや、やるべきです。そのためには資金が必要。この資金の持っていき方に対して、芸術家は結構タブー視する。僕は、それは違うと思う。やはり、いい材料がある、いい道具がある。それからいい感性という、その三つが一体となってね。また、いわゆる経済もしっかり身に着けていけるような日展であったら。これは大切なことですね。だから、そういうことも含めると、何回も何回も改組しているんです。常に新しい日展のための先輩諸氏の積み重ねがございます。だから僕は最初から118回日展というところで新たな気持ちで、全力で発信していってもらえたらいいのかなと思いました。
武田: 第118回、すごくいいと思う。自分が好きな作家さんの展覧会を見に行った時に、その方の略歴を見たら、この方も元日展の展覧会に出していた方なんだってことがよくあるんです。その時にすごく嬉しい気持ちになるんです。だけど、その変遷がわかりにくかったかもしれないですね。でも、118って数がすごく重いし、そこにきちんと思いが馳せられて、日展の連続性がわかる気がします。
宮田:いやいや話は尽きないな。それぞれみんなの思いみたいのも感じたし、同時にすごく責任も感じましたね。いかに皆さんがもっと羽ばたいて、日本の素晴らしさを世界に持っていけるかという、その礎を作るきっかけになる話と勇気をたくさんいただいた気がします。
ぜひですね、日展をご覧になる皆さん、年齢は関係ないんです。今やってみようという一歩を踏み出す大きなきっかけにもなるような気がしています。と同時に芸術家として進んでいる人たちにも、より高みを目指すきっかけ作りができたようで、とても嬉しく思いますね。年齢は関係ないというのが、例えば平櫛田中先生が100歳のときに近代美術館で、僕はまだ学生だったんですけど、ご存知ですかね。「60、70ははなたれ小僧、男ざかりは100から100から」と。「わしはあと30年分の木をこうたぞ」と言った時に70代くらいの前に立っていた先生方が急にしゃんとされた。それを後ろで見ていて実に痛快でしたね。
それと同じように今日もね、私は今ちょうど79歳ですけども、「よし、負けていられないな」という気持ちになりましたね。お互いに啓蒙しあえる時が来たということを大変嬉しく思います。感謝と同時に一緒になってチームを組んで日展の面白さを多くの人に知ってもらって、そしてファンにも、そしてもっといいのは同じ仲間になってもらえる人がここから増えてきたらいいのかな、という気がしました。ありがとうございます。
全員:ありがとうございました。
プロフィールと掲載作品名
宮田 亮平(みやた りょうへい)
1945年、新潟県生まれ。1972年、東京藝術大学大学院美術研究科工芸(鍛金)専攻修了。1981年、第13回日展「ゲルからの移行『8』」により特選受賞。1997年、第29回日展「ぱーるんぐ」により特選受賞。2005年、東京藝術大学学長。2009年、第41回日展「シュプリンゲン『悠』」により内閣総理大臣賞受賞。2012年、第43回日展出品作「シュプリンゲン『翔』」により日本芸術院賞受賞。2016年、文化庁長官。2023年、文化功労者。現在、日展理事長、日本芸術院会員、東京藝術大学名誉教授・顧問。国立工芸館・顧問。
《シュプリンゲン24-1》
岩田 壮平(いわた そうへい)
1978年、名古屋市生まれ。2002年、金沢美術工芸大学大学院美術工芸研究科修士課程絵画専攻修了。2005年、第37回日展「water」により特選受賞。2010 年、第42回日展「すべての花が開くまで」により特選受賞。2021 年、第8回日展「epoch’20-’21」により日展会員賞受賞。現在、武蔵野美術大学日本画学科教授。日展会員。
《ハナトカヂツ》
田中 里奈(たなか りな)
1981年、神奈川県生まれ。2014年、改組 新第1回日展「大地の主」により特選受賞。2017年、改組 新 第4回日展「Meal(食卓)」により特選受賞。2022年、第9回日展「語らい」により日展会員賞受賞。現在、日展会員。
《Fuji》
宮坂 慎司(みやさか しんじ)
1982年、埼玉県生まれ。2010年、筑波大学大学院人間総合科学研究科博士後期課程芸術専攻 修了。2013年、第45回日展「yocto」により特選受賞。2015 年、改組 新 第2回日展「yocto-0」により特選受賞。2023年、第10回日展「singing figure Ⅴ」により日展会員賞受賞。現在、筑波大学芸術系准教授。日展会員。
《singing shell-iii》
武田 司(たけだ つかさ)
1992年、跡見学園女子大学文学部美術史学科卒業。2014年、改組 新 第1回日展「繋ぐ」により特選受賞。2019 年、改組 新 第6回日展「白露―玄鳥去る―」により特選受賞。現在、日展会員。
《涵》
鹿倉 碩齋(かくら せきさい)
1975年、鹿児島県生まれ。2018年、改組 新第5回日展「成歡」により特選受賞。2021年、第8回日展「多聞」により特選受賞。現在、大東文化大学文学部書道学科特任講師。日展準会員。
《多聞》